『だろう』より『かもしれない』——教習所で教わった、危険予測の小さなスイッチ

凪の章

最初に教わったことって、意外に忘れないものだなあと思います。

学生のころ、運転免許取得のために自動車教習所に通いました。そこで口酸っぱく言われたのが、「だろう」と「かもしれない」の話です。道を走っていて、「子どもが飛び出さないだろう」と思うのと、「子どもが飛び出すかもしれない」と思うのでは、危険へのスイッチが違うというはなしでした。もちろん「かもしれない」と思う方が、危険予測の感度が高まります。

「へえ、確かに」と、素直に納得したことを今でも覚えています。

講師の先生が、ここの教習所は事故が少ないと警察署から言われていると自慢気に話していたことも思い出されます。自動車教習所での学びは、仮免許、本番の試験、高速教習と段階を踏んで、大人の階段を上っているような感覚でした。教習所へ通っているときは、車を運転している人がみんな神様に見えました。

あれから、運転をしてウン十年。ベテランの域にはなりましたが、車をこすったり、人身事故はないにしてもひやっとしたことは何度もあります。一瞬で凶器に代わる車は、いつも初心を忘れずに運転をしなければいけないなあと思います。

「だろう」と「かもしれない」の話は、運転中はもちろん、日常のさまざまな場面でもふと思い出すことがあります。今もそのように教えているのでしょうか。

今の私は、いつ頃まで運転できるか、運転免許返納はいつぐらいにしようか。そんなことを考える年になりました。「かもしれない」という言葉は、危険を遠ざけるための、小さくて大切なスイッチなのかもしれません。

ーなぎ

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